薬 師 8

「その・・・・、何故被衣を纏っているのだ?」

 少しばかり言いにくそうに重信が切り出す。下唇を噛み締めた後、時行は望来の袖を引っ張り顔を兄の方へと向ける。弟の口唇が動くのを見た後、望来はまた手の平に何事かを書き付けた。

「目の周りに酷く醜い火傷の跡がありますので、この方がお互いにとって・・・・・・・都合が良いのです。」

 望来が言うのと同時に時行が頷く。重信はどれくらい酷いものなのか興味はあったのだが、無理に見ようとは思わなかった。望来が「お互いにとって」と強調するところから察するに、後味の悪さだけが残るだろう。重信にはそう感じ取れた。それならばまだ夢心地のようなこの時間を味わっていたい。と、彼は心からそう思った。

 暫く沈黙の後、重信が博雅の存在を話し始めた。自分と彼との関係、彼がどういった人物か、鈴を拾ってからの経緯。そして二人に会ってみたいという願望までを二人に伝えた。

「無闇に地下じげ等と関われば、御名に傷がつきましょう。我等は都の見えない部分を支える存在。殿上される方々とは異なる領域の棲息者です。どうか私達のことは今宵限りとしておいて下さいませ。」

 そう言って一歩引き下がると、望来は深々と平伏した。少しの間を以って時行が兄の行動に倣う。だが、重信は引き下がらなかった。

「殿上する身とはいえど、全く地下と関わりがない訳ではない。それに見えない部分を支えることは殿上の身分といえども大切ではないのか?例えば清涼殿の傷んでいるところを直すが如く。・・・・・・流石に場の気の乱れまでは分からぬが――。」

 重信は二人に直るように言ったのだが、二人は利かなかったので重信はむ無く命令した。元の場所に戻った二人だが、部屋には重い空気が垂れ込めた。

「見えない部分の損傷を修理し、影の部分を支え続けていくのでありましたらいずれどこかでまた巡り逢えるやも知れませぬ。今はそれしか申し上げられませぬ。どうかご容赦を――。」

 再び平伏する望来を、重信は苦々しく眺めた。そして違和感を感じてふと視線を横にずらした。・・・・・・いつの間にか時行がいなくなっていた。非常に小さな空間であるのに、退出した音も気配も全く感じられなかったことに対し、重信はいささか寒気を感じた。彼は寒気と共に感じた乾きを癒す為、桜湯を流し込んで干した蓮の実をかじった。望来はまだ平伏したままだ。

 廊下とは反対側、庭に面した方の木戸がとんとんと叩かれ、重信はびくっと身じろぐ。その様子を察したらしく、望来が面を上げ、安心させるように言葉を紡いだ。

「大丈夫でございますよ。時行の準備が出来たようです。日輪のもととはゆきませぬが、一さしご所望の舞をお見せいたしましょう。」

 膝立ちとなり、重信に断ってから望来は木戸を全開にする。十一夜の月の下に、異国の装束を纏った時行が立っていた。被衣は取り払われ、代わりに幅の広い目隠しをしていた。後ろで結ばれた目隠しの布は長く垂らされ、その先には鈴が結び付けられていた。同じく腰の辺りまで垂らされている時行の髪の先にも鈴が結われていた。その様を見て、重信が小さく声を上げる。

「元服しても髪を落とさないのはこれ・・の為。そして被衣を着用するもう一つの理由は、もうお判りですね?」

 そういって微笑むと、望来は庭に下りて懐から笛を取り出し、そっと息を吹き込む。重信の目の前で、月華でも自分とは明らかに異なる色の髪がごくゆっくりと動き始めていく。程無くして微風そよとのかぜに揺れる木々のざわめきとも、川のせせらぎとも言える鈴の音が重信の耳に届く。そうして届けさせた手紙には陰明門で舞っていた舞いを日の下で舞ってほしい。と末筆に書いたことを思い返す。時行が舞っている舞いは陰明門で目にしたものとは違うものだと分かった重信だったが、焦がれてきたものを手にしたことと、誰も見たことがないであろう光景を独占している優越感でそのような事はもう如何どうでもよくなっていた。

「・・・・・・ようやく、・・・・ようやく出逢えた――。」

 誰にという訳にもなく零れ落ちる独白。壁を隔てた廊下側でその言葉を耳にした保憲は、重信に目に付かないように庭に出て橘兄弟の共演を鑑賞する事にした。

 そんな四人に、月はただただ静かに光を投げかけていた。

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